2005年10月01日
第2回 法律と再現芸術
法学部出身の音楽家は意外と多い。
有名どころをあげてみると、作曲家ではチャイコフスキー。
指揮者ではカール・ベーム、朝比奈隆。
余談だが、社会契約論を説いたルソーなんていう人も「むすんでひらいて」の作曲者として有名。
社会契約論は、国家法人説を生み出し、その後の民法理論に多大なる影響を与えた学説でもある。
話が難しくなったついでに、法律の解釈の話を少し。
一般の方が法律の解釈という言葉を聞くと、形式的で小難しく、人の気持ちなど全く考えないであたかもコンピューターのごとき頭脳をもっていないと出来ないものだというイメージを持っている方が多いと思う。確かに、理屈の問題として法解釈を学ぶにあたっては決して簡単ではないが、実のところ法律の解釈というのは実に人間の血が通った人間くさいものなのだ。
人の気持ちを重んじるが故に、コンピューターでは処理できない。それが法の解釈。
ある紛争が生じたときに、法律をこねくり回して結論を出すのではなく、実のところ「まず結論ありき」なのである。
「こういう事情だったら、こういう結論にするのが誰もが少しずつ痛みを分け合って誰からも文句はでないだろうから、この結論で行こう。」というところから出発するのである。
後は既存の法律を駆使してその結論を如何に正当なものだと説得できるか、その理由付けを法の解釈に頼るのである。
江戸時代、南町奉行に大岡越前乃守という名奉行がいました。
大岡裁きは実に見事で、かつ、粋な裁きだということで、後世にその逸話が語り継がれていているところ。「大岡政談」と呼ばれ、その幾つかは落語にもなっている。
有名な話は「三方一両損」というお話。
ある人が3両入った財布を拾ったので、その落とし主を探して届けに行く。ところが、その落とし主は「落としたのは俺の責任だ。届けてくれたのはありがたいが、落としたところでもう俺のものじゃない。お礼に全部持ってってくれ。」となかなかの頑固者。
一方届け主も「江戸っ子は宵越しの銭は持たないんだ。お礼が欲しくて届けに来たんじゃない。」と負けてない。結局この3両をお互いに受け取らないことが原因で喧嘩になり、奉行所に持ち込まれる。
大岡は、「お互いに要らないと言うのであればその3両は奉行が預かる。」ということで2人は納得する。そこで一言。「正直者の2人に対して奉行から2両ずつの褒美をとらせる。」訴えを起こした人も起こされた人も奉行もみんなが一両ずつ損をすることになって、紛争が丸く治まるというお話(どうして3方1両損になるのか?ちょっとしたパズルですね。正解はいずれ・笑)。
チャイコフスキーの音楽は言うに及ばず、ベーム、朝比奈さんの指揮及びその解釈は、実に人間くさい。悲しみも喜びも嗅ぎ分けたそんな音楽を作り出している。
作曲者も指揮者も演奏家も聴衆もみんなが少しずつ損(努力を惜しまないということ)をすることによって、結果的に素晴らしい音楽を作り出す。
指揮者がスーパースターで、オーケストラはその引き立て役、聴衆には有無も言わさずに聴くこと(見ること?)を強制させる。
そんな状況で良い音楽が作れるわけがない。
誰のこととは言わないが・・・(ただ、こういう人でも、例外的に素晴らしい音楽になってしまうことはあるが、それは作曲家が偉大だからであろう・笑)。
以前、ある会社の工場が流した汚水の中に水銀が含まれていて、それを体内に取り入れた魚を食べた妊婦から生まれてきた子供達が、生まれつきの障害を持ってしまったという事件が発生した。
有名な「水俣病事件」である。
数多くの赤ちゃんがその障害のために苦しみ、死んでいった。
こんな汚水を流した会社は許すわけには行かない。
刑法で罰せられるのが当然だというのが、やはり誰もが考えるところだろう。
案の定この事件は立件され、検察官は「業務上過失致死罪」でこの会社を起訴した。
ところが、我が刑法上、業務上過失致死罪として保護される対象は、あくまでも「人」と規定されている。障害を持って生まれてきた赤ちゃん達は、実は胎児の段階で水銀入りの魚の影響を受けている。
残念ながら現在の刑法では、「胎児」は保護の対象とされていない。
この事件が起きるまで、現にどの教科書を読んでも「胎児」を保護する説はなく、こういう事例が仮にあったとしたらそれは無罪だというのが、学会の通説であった。
じゃぁ、実際にこんな事件が起きたのにも関わらず、法律上その会社は無罪でいいのか?そんな結論は誰もが納得しない。胸をなで下ろすのはその会社だけ。
そこで、何とか「人」という文言の中に障害を受けた「胎児」を埋め込むような解釈をしなくてはならない。もちろん、こんな事件は初めてだから、参考になる判例もない。
法律家達は日夜頭を悩まして、何とか赤ちゃん達やその親御さん達の感情に報いるために様々な法解釈論を考え出した。この事件から数十年経った現在でも、未だにこの法解釈論にはすっきりした説明に成功しているものがなく、通説不在と言われている。
結局、熊本地裁は、「胎児には人間としての萌芽があるため、胎児を「人」と同視すべきだ」という大胆な説を唱えて、有罪判決を出した。実に見事な判決だと思う。
これで一死報われたとなるはずだが、当然会社側はこの結論に納得が行かないのか、その後10年近くに及び、結局最高裁まで争った。
最高裁は、「妊婦という人に対して水銀入りの魚を食べさせて病気を発生させる作用を及ぼし、結果において生まれてきた「人」である赤ちゃんにその症状が出たのだから、「人」の解釈の中に「胎児」を押し込んで解釈する必要がない」という法解釈をすることによって、やはり有罪判決を出した。あの保守的な最高裁がここまで頑張った。凄いことだと思うと同時に、裁判では被害にあった子供達やお母さん達は報われたのだ。
最高裁の解釈(理屈付け)に対しては批判があり、今ではもっと納得しやすい説明ができるように法解釈が発展しているが、やはり目指すは「みんなが納得し感動する結論を出す」という点において一致している。
音楽も同じことが言える。
指揮者をはじめとする演奏家は、自己満足のためではなく聴衆に感動してもらうように、また、みんなが納得してもらうように、作曲家が書いた淡泊な楽譜を一生懸命頭を悩まして解釈して再現するのである。その解釈の仕方は様々であるが目指すところはみんな同じなのだ。
法律をある程度真剣に学んだ方や、実際に実務に就いて働いている方は、このことを身を以て感じている。それ故に、そういう方が音楽の道に入ったとき、その経験が上手く活かされると同時に、どうも演奏が人間くさくなってしまうのだろうと思う。この人間くささは、後は好みの問題になると思うが、人生苦労されてきた方はこの人間くささが「たまらん」と言い、「好きな演奏家は?」と聞くと「ベーム」、「朝比奈先生」と答えが返ってくることが多い。
ただ、不思議と曲自体が人間くさいチャイコフスキーは、両先生ともにあまり演奏したがらないのが、面白いところだと思う。
ちなみに、カール・ベームは法学博士、朝比奈さんは京都大学法学部の出身である。(H13.10.7)
投稿者 oreirei : 21:27
第1回 法律と再現芸術について(総論)
この文章は、僕が司法試験に合格したときに、受験生向けに法律のおもしろさを知ってもらおう、楽しく勉強してもらおうと思って、書いたものです。その意味では、一般向けではないかも知れませんが、当時の思い入れをそのままの形で載せておきます。

1,私は、クラッシック音楽が好きである。歌舞伎も好きである。
また、古典落語の大フアンでもある。
こんなことと法律がどんな関係にあるかということについては、おそらくまだ見当もつかないことであるに違いない。
ところがこれが関係あるのであり、私はこの関係について認識することによって法律に対する興味をよりいっそう深めることとなったのである。
2,世間一般に右に掲げたものは、いわゆる再現芸術などと言われている。
ここに言う再現芸術とは、一体なにを意味するのかが、右の関係を理解する手がかりとなろう。
ここに言う再現芸術とは、ある一定普遍のもの(右の例で言えば楽譜であり、台本である)を再現するについて再現者の一定の解釈を通すことによって再現内容が変わるものを言う。
例えば、音楽について言えば、作曲者が書いた一定普遍の五線譜があるが、これは、作曲者の意図通りというわけでわなく、再現者たる指揮者の楽譜に対する読み込み即ちその者の解釈によって演奏内容は変わりうるのである。
つまり、指揮者 次第で同じ曲でも実際に耳にするときには違うものになっているのである。
そうであるからこそ、同じ曲名のレコードを指揮者を変えて何枚も買っては、聴いてしまうのである。
歌舞伎や落語についても、全く同様のことがいえる。
つまり、演者によって再現されるものが変わってくるからこそ、同じものを聴いたり見たりすることに飽きずに愉しむことができるのである。また、そういうものであるからこそ、奥が深いのである。
3,ここまで言うと、勘のいい人であれば私のいわんとしていることが、わかるのではないか。
要するに、このことは、そのまま法律についても言えるのではないか、と言うのが私の持論である。
法律も奥深く興味深いものなのである。
私の場合、法律よりも音楽の方が先にこのことに気付いたので、それを応用してみただけの話なのである。
音楽と同じように楽しく法律を勉強できないものだろうかということを考えているときにふと思いついたのである。
これを法律の場合について当てはめてみよう。
法律の場合には、作曲者の書いた五線譜の代わりに、立法者の書いた条文がある。
ただ、これは常に立法者の意思通りに解されるわけではなく、必ず適用者の解釈がそこには介在する。そして、解釈する人次第によって、条文の意味が変わってくるのである。
そこに学説の対立が生じるのである。
そのうちの通説と呼ばれるものは、いわばいろいろな意見の中のオーソドックスなもの、音楽で言えばカラヤンみたいなものと言える。
誰でも知ってる指揮者であり、法律で言うところの我妻先生みたいなところだろうか。
4,このように見てくると、法律もいわば再現芸術の一つではないかというところに落ち着くのである。
こう考えると、音楽や歌舞伎、さらには古典落語と法律の勉強は実は同じなのではないか、と思った瞬間法律の勉強が楽しいと思えるようになったのである。
これは、例えば、「運命」(ベートーベン)についての新解釈のレコードが発売されると聞いて胸をときめかすのと同様に、内田の「民法3」がでるというのを聞いて、民法の新解釈が読めるのだと思って本がでるのを楽しみにしているというのと全く変わらないのである。
勉強というものは、元来つまらないものだが、このような発想の転換一つでいくらでも楽しくやれるものだと思う。参考にしていただければ幸いである。(1996.12)
投稿者 oreirei : 21:12